「それに、香りそのものについても、興味が沸いたの」
学べば学ぶほど、奥は深い。悔しいけれど、桐井愛華が颯爽と歩いている世界は実に広大で、複雑で、素人の自分などが安易に足を踏み入れればすぐに迷子にでもなってしまい、でも誰も助けの手など差し伸べてはくれないくらい厳しい世界。でも、とても美しく、華やかだけど厳かで、長い歴史を持った凛とした風格の漂う、魅力的な世界でもある。
香りは今は合成香料なども多く使われている。調香師やフレーバリストの中には、理学系の大学を卒業している人が多い。
「こんな初歩的な分子式もわからないような人間には、慎二の満足するような香りなんて作れないわ」
「一流になりたい。そう思った」
「一流」
「それは言い過ぎかもしれない。世界には、桐井先輩のように十代前から香りに親しんでいる人も多くいる。私のように二十代から始めたのであっては遅いのかもしれない。ズバ抜けた嗅覚を持っているワケではないし、きっとセンスも無いと思う。だいたい、こうやって誘惑に負けてついついコーヒーを飲んじゃうような私が一流だなんて言葉を口にしたら笑われると思う。だけれども、もっと知りたいと思ったの。もっと自在に香りを操りたいって」
「操りたい?」
「香りや香料の知識をカジってみて、香りって本当に自分の日々の生活に溶け込んでるんだなって思った」
コーヒーショップの前で挽きたての豆の香りがしただけで、コーヒーが飲みたくなる。どんなに眠い朝でも、清々しい香りを嗅ぐと、スッキリと目が覚める。
「香りを自在に操る事ができれば、自分の生活ももっと充実するのかもしれない。もうちょっとコントロールできるのかもしれないし」
「自分をコントロール? どうやって?」
「それはね」
言いかけた智論の脳裏に、何かが過ぎった。
自分は、何をコントロールしようとしているのだろうか?
それは、たとえば眠い朝とかやる気の出ない時などに効率よく香りを使えば、仕事ややるべき事を効率よくこなす事ができるし、落ち込んでいる時などにも上手に心を鎮める事ができる。
落ち込んでいる時?
慎二が女をまた一人泣かせたと聞くたびに、気持ちが沈む。別の女性が近寄ってきたと聞くたび、心がざわめく。
ざわめく? どうして?
「智論さん?」
怪訝そうに首を傾げる美鶴の視線に、智論は瞬きをした。
「コントロールというのはね」
慌てて、でも努めて冷静に笑ってみせる。
「落ち込んでいる時とか、なんとなく気が乗らないなぁっていう時に、効果的に香りを使えば気持ちを切り替えさせる事ができるのよ」
「そんな事が?」
「できるのよ。今は、勉強のやる気を引き出させる香りなんてのもあってね、受験生用のグッズとしてもかなり売り出されているわ。コントロールって言うより、使いこなすって言った方が正しいのかもね」
「勉強のやる気?」
「そうよ。知らない?」
「し、知りません」
そんなモノが出回っていたのか? 同級生たちも、そのようなモノを持っているのだろうか?
「たかが香りぐらいでやる気だなんて」
とても信じられない。だが、実際に美鶴自身も、香りに影響されているな、と感じるコトはある。体調を崩した時の瑠駆真の気遣いもそうだったし、それに。
銀梅花。
そっと髪に触れても、香りはしない。
「銀梅花ですね。今年はずいぶんと早いみたいだ」
良い香りですね、と付け足す霞流の表情に、胸が締め付けられたのを覚えている。
霞流さん、このシャンプーの香りに、気付いてくれてるのかな? あ、そういえばあのシャンプー、今ので最後だ。またツバサに頼んでみないと。
そっと手を離し、小瓶をテーブルの上へと置いた。
「この香りは?」
「乳香とかベルガモットとかをブレンドした、ごく簡単なものよ。基本的なブレンドでも三種類くらいは合わせるわね。これは自分的にはちょっと頑張って凝ってみたつもりなんだけど、半日くらいのアロマテラピーの講座を受けたりすれば、大抵は手にするような作品だと思うわ」
「へぇ」
「今はネットでも簡単なレシピは公開されてる。こんなブレンド精油は、専門店にでも行けば簡単に手に入るわ。今はこの手の商品は人気があるから、デパートや、その辺りの雑貨店にでも置いていたりするわね。安価なモノもあるから、気兼ねなく受け取ってもらえるとありがたいんだけど」
「そうなんですか」
知らなかった。買い物なんて、金を持っている人間のする行動だ。ウィンドーショッピングなんて洒落た趣味は美鶴にはない。テレビもほとんど見ないので、トレンド情報にはかなり疎い。
香り。
小瓶をまじまじと見つめる。
「ただ必要な時に瓶の蓋を開けるってのも一つの使用方法なんだけど、今はアロマポットを使ったり、あとはオリジナルのシャンプーとかデオドラントスプレーを作って楽しんだりする人もいるわ。アロマの学校って言うと、今はそういったノウハウを簡単に伝授する学校が多いみたい」
「シャンプー?」
乗り出す美鶴に、智論は目を見張った。
「え?」
「このオイルで、シャンプーが作れるんですか? あと、スプレーとか?」
「え、えぇ」
その勢いに身を引きながら、智論は目を丸くする。
「そうだけど、それが、何か?」
相手の態度に自分の行動を恥じ、だが美鶴は、しばし思案した後に、意を決した。
「あの、銀梅花の香りっての、あります?」
「え? 銀梅花?」
「はい。えっと、こういう、アロマ?」
「エッシェンシャルオイルね」
智論は指を唇に当てる。
「銀梅花って、マートルのことよね? えぇ、あるわ。アロマでもわりとよく使われる香りよ。西洋ではハーブとして古くから使われているし」
「地中海方面原産で、ハーブとしても使われていたはずです」
あの時、霞流さんも言っていた。
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